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平和コラム

核兵器廃絶を求める「平和の波」に呼応して(最終)

原水爆禁止世界大会の参加者の感想文を紹介します

世界を動かしている実感と世界を変えていく可能性にみちた大会
     東京地本副執行委員長  國米 秀明

 今回で世界大会(広島・長崎)の代表団の責任者として参加したのは5回目だ。
 最初に世界大会に参加したのは実に21年前。しかし今や被爆者の平均年齢は81歳を超え、登壇して発言されている方を見ると本当に頭が下がり、胸が締め付けられる。

 世界大会の総会や分科会では被爆者の方から、体験や被爆者として生きてきた様々な思いを聴ける機会が年を追うごとに貴重になり、参加することの責任の重さをひしひしと感じる。
 そして同時に、核兵器廃絶に向けた国際的な広がりを参加するたびに実感する。
 今大会は日本の国連軍縮問題担当上級代表が核兵器禁止条約について報告されたほか、条約作成に中心的な役割を果たしたオーストリアからマルチン・クリューガー外務省軍縮軍備管理不拡散事務局長も3日間参加し、総会での報告やフォーラムのパネリストを務めた。
 その他にも22か国から94名の海外代表が参加し、43都道府県227自治体の首長(全自治体の約13%)から大会にむけたメッセージが寄せられていた(東京の自治体からは板橋、武蔵野、稲城、狛江、小金井、小平、武蔵村山、西東京の区市長からメッセージが届いていた)。
原水爆禁止の運動は、太平洋ビキニ環礁沖の水爆実験により被爆した第5福竜丸の事件をうけて、原水爆禁止を求める杉並区の市民や労働組合がはじめた。時期を同じくして、広島・長崎で被爆した方々が、日本被団協などの団体を結成し、国家に対する被爆者救済と核兵器廃絶を求めて立ち上がった。私たちが参加した、原水爆禁止世界大会はここからはじまり、世界に核兵器廃絶を発信し続けてきたのだ。

 毎年5月6日から東京から広島にむけて歩く「国民平和大行進」(他のコースもある)も始まり、約9割の自治体が非核宣言をするなどの到達をつくりだしてきた。このことは意外に日本人が知らない世界に類をみない反核運動の成果だ。
 核廃絶にむけた署名も延々ととりくまれてきた。
 今年7月、国連で核兵器の全面的な禁止を求める「核兵器禁止条約」が採択されたのは、被爆者の方々の命をかけたたたかいはもちろんのこと、私たちが粘り強く運動を継承してきた結果だと正当に受け止める必要がある。
 
 福祉保育労東京地本は、毎年世界大会に代表を送るために、平和や核兵器廃絶をテーマにした学習会や必要な費用を捻出するための財政活動、署名活動や代表者に折り鶴を託すとりくみが続けられている。いわゆる「草の根の運動」を誠実に続けている。若い組合員を積極的に世界大会に送ることで、核廃絶にむけた運動の継承を着実に継続している。核兵器禁止条約ができたことに、自分たちも参加してきたことを確認し、日本がこの条約に批准することを求めていきたい。           

 世界大会開会にあたり、代表を務めた安斎育郎氏(立命館大学特命教授・名誉教授)は、原爆投下から72年かけて核兵器禁止条約がつくられたことを、学者らしく「72」という数字が数学上どのような存在かを重ねて以下のように発言された。

72という数字は、数学では「最小のパワフルナンバー(別名:アキレス数)と呼ばれている。
原爆投下から72年で私たちはこの数字通り、とてもパワフルな「核兵器禁止条約」を手に入れた。しかし日本も核保有国も参加しておらず、パーフェクトではない。
 これからパワフルな条約を活かして核兵器廃絶というパーフェクトな未来をつくりましょう。

 核兵器廃絶にむけて世界がひとつになれるパワフルな条約の批准を日本政府にせまること。それでも批准しようとしない政府なら、選挙などで私たちの願いが実現できる政府に変えていく。
 このことを本気でめざしたくなる世界大会だった。

[番外編] 九州豪雨被災地ボランティアに参加して(8月10日)
 今年7月、福岡県朝倉市などが線状降水帯(積乱雲が次々と同じ場所に強い雨をもたらす)による大雨被害に見舞われ、多数の犠牲者と家屋や農地への甚大な被害が発生した(激甚災害に指定)。
 私は長崎での世界大会後、たった1日間だが福岡県朝倉市での支援ボランティアに参加した。
 8月9日は朝倉市に隣接している久留米市に宿泊し、早朝被災地とは列車で30分ほどの吉井駅に到着した。この駅から被災地までは約5キロしか離れていない。しかし駅周辺は全く豪雨の爪痕はなかった。しかし筑後川を渡り被災地域に入ると途端に川の堤防が崩れ、流木が道路沿いや農地に転がっている。建物の1階がまるごと流されている民家や土砂に埋まった車などもあり、あらためて、局所豪雨の恐ろしさを感じた。
 被災地で私は野菜農家のビニールハウスに流入した土砂を取り払う作業を手伝った。
 スマホが熱で起動しなくなるほどの酷暑のなか、シャベルで土を一輪車に載せて土砂捨て場まで運ぶのは重労働で、終わるころにはバテてしまった。でも自分はたった1日間しかこの作業をしない。被害にあった農家は農地だけでなく自宅にも土砂が流入して家財や農機具も損害を受けて、1ヵ月以上ご苦労されていることに心が傷んだ。
 また被災して大変ななかでもデイサービスや特養が運営している様子が車から見えた。市の社会福祉協議会はボランティアセンターを立ち上げ、復興の中心的な役割を担っている。
 福祉労働者は災害に見舞われても、あるいは災害に見舞われればなおのこと、人命と人権の担い手とならなければならない。
とてもたいせつな使命があるからこそ、抜本的な処遇改善と被災した福祉事業所に対する手厚い国や自治体からの補助が必要だと感じた。                      

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