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平和コラム

核兵器廃絶を求める「平和の波」に呼応して

原水爆禁止世界大会の参加者の感想文を紹介します

初めて原水爆禁止世界大会に参加して  南多摩支部 こぐま保育園分会 田村萌華さん

今回初めて原水爆禁止世界大会に参加させていただきました。私自身母親の実家が長崎で、毎年夏は長崎で過ごしていたので祖父や祖母からどんな恐ろしいことがあの日に起こったかと聞いて育ちましたが、三日間原爆について、平和について学ぶことができて良かったです。
 
 二日目の分科会では動く分科会 被爆遺構・碑めぐり に参加しました。午前中は実際に自分の足を使って爆心地公園から長崎大学医学部(旧長崎医大)、浦上天主堂、如己堂を巡り、午後は被爆者の大塚かずとしさんから当時の話しを聞き、原爆資料館の見学をしました。
 
長崎大学医学部は爆心地からおよそ600m離れたところにあり、原爆により大学の建造物は倒壊、発生した火災で全焼し合計898人が犠牲となったそうです。正門は1.2m四方、高さ1.8mもある大きな門柱ですが、爆風の影響により9cm前にずれ、台座との間に最大16cmの隙間ができています。
 浦上天主堂は爆心地から500mの所にあり、当時は東洋一の教会と称されていましたが、原爆によりほとんどが倒壊、焼失しました。北側にあった鐘楼は直径5.5m、重さが50tもありましたが、秒速250mの爆風で35m離れた小川まで吹き飛ばされました。その後、1959年に浦上天主堂は再建され、この鐘楼は当時の原爆の被害を当時と同じ場所で伝え続ける唯一遺構となっています。
 また、原爆資料館では被爆した浦上天主堂の南側の側壁の一部を再現した物と、爆心地公園の地碑の横に当時の姿のまま移設されています。
 
 爆心地の近くを巡っていると、いたる所に千羽鶴が飾られていて、多くの人の平和への思いが強く感じられました。

大塚さんは当時小学5年生で爆心地から3km離れたところで友だちとセミを捕って遊んでいる時に原爆の被害に遭ったそうです。大塚さんがおっしゃった「生きる苦しみの始まり」という言葉が1945年8月9日から今なお続いている原爆の後遺症(病名ははっきりしないが、心臓の発作が起こり40年間ニトロを持ち歩いているそうです)の恐ろしさを強く感じさせました。
また、一日でも長く生きて話をすることが核兵器に対する抵抗だ、とも仰っていました。 
このような一人一人の微力であっても無力でない力たちが今回の核兵器禁止条約の国連での採択を導いたと思うとその力は本物であるのだと強く感じました。

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