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平和コラム

核兵器廃絶を求める「平和の波」に呼応して

原水爆禁止世界大会の参加者の感想文を紹介します

世界大会3日間の報告と感想    調狛府中支部 六踏園分会 辻 愛紗さんより

1、3日間の集会の報告
1日目 2017年8月7日 世界大会長崎開会総会 (会場6000人参加)
@長崎市民会館体育館・文化ホール
“折り鶴”等、合唱後、開会。
○主催者あいさつ 72年について、72の数字に対する数学的解釈の話。72=パワフルナンバ一≒「強   
力だけど、完全でない」
○被爆者あいさつ(木戸さん) 被爆後11年隠して生きてきたこと、戦争受益論等。 
○国連、政府代表発言(中満泉国連軍縮問題担当上級代表)
7月7日に採択された核兵器禁止条約の意義について、核兵器の安全保障上の問題と人導主義的取り組みの視点から。国連としては、軍縮、核廃絶を進めていきたい。
○ベネズエラ代表より
○オール沖縄の発言 辺野古、新基地問題。
○田上長崎市長あいさつ
○長崎県民の会代表
○名地域の活動報告
 ネパールからヒバクシャ署名贈呈、東北6県のとりくみ(宮城県知事から初署名)、山口県のとり 
くみ(安倍首相の地元だが、100万人署名目指す)、小学生の取り組みなど
○各国参加者代表より
 韓国、フランス、ベトナム、アメリカのNGOより発言
○国民平和行進者から全国での行進の報告、若者や韓国人も参加等。

2日目 動く分科会「被爆遺構めぐり」に参加
 爆心地公園集合長崎市職員と同行し、名所で説明受ける。
 原爆投下中心碑⇒浦上天主堂遺壁⇒原爆投下直後の地層⇒下の川⇒キッズゲルニカ⇒国立長崎原 
爆死没者追悼平和祈念館(外観のみ見学)⇒平野町コンビニで休憩とグループ各自自己紹介⇒長崎大学医学部(爆風で傾いたままの門柱、熱線で表面が溶けた瓦=大学構内の地面にも、溶けた瓦見つかる)⇒浦上天主堂⇒ 堂内、入口付近に設置された被爆した石像、被爆マリアの説明、爆風で落下した旧鐘楼ドーム⇒如己堂(永井降博士の住まい)⇒昼食(皿うどん等)⇒被災協講堂にて被爆者の方から体験談をきく⇒平和公園(翌日の式典準備中)⇒エスカレータ一下に残る防空壕(被爆者の高齢化進み、エスカレーター設置の際に1つ撤去)⇒原爆資料館前 解散
○原爆資料館内見学
ボランティアスタッフの渡部さんに声をかけていただき、資料の説明いただく。計3時間ほど。
長崎投下のファットマンの構造、投下先の変更、爆心地に決めた理由、原爆投下直後や人体被 害、平和祈念像の意味を聴く⇒国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館内見学(平和祈念式典の前日のため、被爆死没者名簿は別室にあり見れず)
○山王神社(祈念館で渡部さんと別れたが、神社にて再開し再度説明いただく) 
1本足鳥居、被爆したクスノキ(木の穴には原爆の爆風で飛んできた見瓦や石などが今でも入っているのが見れた)
3日目
ナガサキデー集会  7000人参加 @長崎市民会館体育館・文化ホール
“折リ鶴″等、合唱後、開会
○連帯あいさつ
○オーストリア外務省
○長崎県保険医協会会長 本田医師より(被爆者または被爆体験者が半数入院している病院の医師)
 1945年9月に原子爆弾の影響はない、と報じたアメリカ。調査もあまりされていない。
 2011年土壌調査実施。検出されず。被爆体験者は、“被爆者”として認定されないため、認定求 
め訴訟中。
○韓国から初めて千羽鶴
○11:02 黙とう
○被爆者松谷さんの訴え(松谷訴訟原告)
 自宅でニワトリ見て遊んでいる際に被爆。当時3歳。頭部に瓦直撃。1年おくらせて小学校入 
学。“長崎が永遠の被爆地に”
○核実験被害者マーシャル諸島住民より
○各政党から
 自由党、沖縄の風、共産党
○参加者発言
アメリカ、イギリス、韓国、リサ・クラーク氏 国際平和センター、新婦人の会(3万人署名)、
高校生(1万人署名運動)、「少年少女のつどい」参加者(昼ごはんに戦時中の食事、すいとんなど食べた)、北海道原水協(130自治体町長村長賛同。市役所に1カ月署名の用紙置けた)、岐阜県(全自治体で署名)、山口県(100万人署名目指す)
○歌
○閉会

2、感 想
 今年の原水爆禁止世界大会長崎に、参加させていただきました。
もともと、平和や戦争については正直、関心を持って毎日を過ごしてはおらずテレビのニュースや8月中に放送されるテレビ番組を見て、再認識しているのが現状です。
そのため、予習も足りず、世界大会会場に全国から詰めかけた人の数、団体、組織の数にも驚きました。自分の親くらいの年齢の方が大半を占めていたように思います。
私たち、福祉保育労11名は20代が過半数で、大会参加者の中では比較的若く、他の方々のように“行動を起こす”と言うよりは“学ぶ”側です。年長者の熱気と国際的な会場の空気は、今年7月に採択された核兵器禁止条約によって更に高まっているのだろうと思われました。
2日目の遺構めぐりでは、市内各所を説明を受けながら歩きました。特に、長崎大学の爆風で傾いたままの門柱や長崎大学の地面に今でも、熱戦で溶けた瓦の破片が落ちていて拾えること、原子爆弾の熱線が太陽に近い5000度だったことには衝撃でした。
遺構めぐり後に入った原爆資料館では、ボランティアスタッフの渡部さんに1対1で説明を受ける機会があり、初歩的な質問にも、丁寧に応えていただきました。渡部さんは、原爆投下後、三菱工場で働いていた父親を母親と探すため市内に入り、被爆されていました。
渡部さんからは、“伝えたい”と言う強い意志が感じられ、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館も案内していただき、一緒に祭壇の前で手をあわせることができました。その施設の屋根や壁などには、当日亡くなられた方たちが求めた水が設置されています。
約3時間ほど案内いただいた渡部さんと別れて、話にあった山王神社の片方だけの鳥居と被爆クスノキを見にいきました。説明通り、爆心地側の鳥居の壁面は文字が読みとれず、風圧で向きもずれていました。神社境内のクスノキの太い幹にある穴には吹き飛んで入った瓦や石が入っており、被爆された方々と重なるものがありました。
するとそこに、埼玉県グループを連れた渡部さんと再会し、ここでも説明を聞かせていただくことになりました。神社境内前の道は、浦上街道と言い、キリシタン弾圧で処刑された二十六聖人が処刑場まで歩かされた道だと知り、長崎の歴史の厚みを改めて感じました。渡部さん、長時間の案内、ありがとうございました。
夜は、爆心地公園の慰霊祭を見学しました。小雨の中でしたが、キリスト教や仏教など様々な宗教の音楽が順番に流れる中での式で印象に残りましたが、白菊を供える人たちの願いや祈りは共通するのだろうと思うと、国籍や宗教などは、目印としてあるようなもので、特異な為政者の意地の張り合いに巻き込まれず、皆が正しいと考えることを共有し訴えることで、大きな力にもなるのだろうと思えました。核兵器禁止条約づくりが、そうであったのかもしれません。最も、採択に至れたのは、被爆者の方の存在と努力が大きかったと、中満泉国連軍縮問題担当の方も言及されていました。
市民による平和運動は、短期間で大きな効果は生みづらいですが、知らない人に知るきっかけを作る、と言う意味があるのだろうと思えました。
私も大会に初めて参加し、関心がわき、自分でできること、意識するもの等、少しだけ深まったように感じます。
長崎原爆の日を含む3日間を現地で過ごせたことは貴重な体験でした。

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